まだ夜があけない午前3時頃、後ろから抱きしめられて小狼は目を覚ました。小龍が寝惚けて抱き締めてくるのは良くあることなのだが、どうも今日は様子が違う。
というのも、いつもは優しくふわりと包み込まれ心地良く思えるのに、今回はそれとは打って変わり不安を覚えるものだった。
小狼を包む腕から指先にかけて、ずっと力が入りっぱなしなのである。こんなことは今まで一度もなかった。

「…兄さん?」

何かあったのではないかと声を掛けてみるが、反応は無い。小龍の表情を確認する為に寝返りをうとうとしたのだが、起こしてしまったら悪いと思いそのまま様子を窺うことにした。
しかし、時間が経っても小龍の身体の緊張はなかなか解けず、悪夢でも見ているのかと思った矢先

「…て……くな」

うまく聞き取れなかったが、小さな声でそう呟いた。その声は、普段の兄からは想像もできないほど弱々しいもので。声とは相対的に、小狼を抱き締める力は更に強さを増した。
一体今の兄に何が見えているのか、夢の中ではどんなことが起きているのか。不安が増す一方だった為、少しだけ上体を捻り後ろの様子を確認しようと試みる。

「………えっ」

衝撃的だった。両目は腕に込められたものと同じだけの力で瞑られており、眉間はこれでもかというくらいに深く溝を作っていた。呼吸は浅く、歯を食いしばるその姿は、まるで身体を蝕む痛みに耐えている様にも見える。
もしかしたら、本当に体調が芳しくないのかもしれないと思った小狼は、先刻までこそ兄を起こさぬようにと気を使っていた自らの上体を起こし、眠りから醒させようと小龍の肩に手を掛けようとした。

その時だった。

「……おいて…いくな…。しゃおら……」

苦しそうに、小狼の名前を呼んだ。先程は聞き取れなかったその言葉。小龍の手は、先程まで小狼が横になっていたあたりを、何かを求めるかのようにシーツの上を這うように動いている。

「―――っ」

居てもたっても居られなくなり、気がついたら小狼は兄の身体を抱き締めていた。強く、それでいて優しく。

「大丈夫だよ、兄さん…」

―――おれはずっと、ここにいるよ。兄さんの隣に、ずっとずっと。だから、そんな顔をしないで。
まるで幼い子供をあやすかのように、背中を手のひらで軽くポンポンと叩く。すると、少し安堵したのだろうか、硬く閉じられた小龍の片目から、つぅ…と一筋の涙が頬を伝った。
小龍がどんな夢を見ているのかは分からないが、何かしらの事情で自分達が離ればなれになってしまうという事だけは推測ができた。
夢の中だからだろうか、普段いつも見ている小龍はそんな感情を表に出すことは滅多に無いのだが、今だけは全面に出てしまっている気がする。
兄を苦しめてしまっている現状に対しては胸が張り裂けそうだったが、いつもと違う一面を見ることが出来たのは少しばかり嬉しいというかなんというか…。

一定のリズムで何度か叩いていると、強ばった小龍の身体から次第に力が抜け落ちてきた。呼吸も落ち着いたようで、すぅすぅと規則正しい寝息が聞こえてくる。
悪夢はもう見ていないのだろうかと表情を確認すると、眉間の皺も何もかもが何処かへと消え去っており、そこにはいつもと変わらぬ兄の寝顔があった。
ほっと胸を撫で下ろすと、直後に眠気が襲ってきた。小狼はそっと兄の背に回していた腕を解き、今度は自分と兄の手と手を重ね合わせるようにする。
ここにいるよと伝わるように、独りにしないと伝えるようにして、そのまま小狼は眠気に導かれるように瞼を閉じた。



「珈琲と紅茶、今日はどっちがいい?」
「うーん、じゃあ珈琲…」
「了解。砂糖とミルクも入れておくな」
「ありがと」

いつもと変わらない朝の光景。今朝のメニューは、トーストとスクランブルエッグ、プチトマトが乗った簡素なサラダにウィンナー。
本来なら今日の朝食当番は小狼だったのだが、変な時間に一度目が覚めたせいかアラームの音で起きることが出来ず、先程ゆさゆさと小龍に揺さぶられて起床することになってしまった。
その上『時間だぞ、お寝坊さん』とくすくすと笑われてしまうというおまけ付き。小狼から言わせてみたら、一体誰のせいでこうなったと思っているのだろうという話でしかないのだが。
とはいえ、本人に悪気はないどころか覚えてすらいないのだろうから責めようがないのである。ここはスッと折れておこうと、トーストにマーガリンを塗りたくりながら小狼は思った。

「…ふぁ~」

大口を開けながら欠伸をしていると、目の前にコトリとマグカップが置かれた。珈琲とミルクの混ざりあった優しい匂いが鼻腔をくすぐる。
元々砂糖もミルクも入っているが、足りなかった時の為にとカップの隣にそれぞれが入った容器も用意されていた。

「珍しいな。よく眠れなかったのか?」
「ん…、ちょっとね」

当の本人は、魘されていたとは思えないようなスッキリとした顔をしている。寧ろ、何かあったのだろうかと怪訝そうな表情をこちらに向けてきた。

「悩み事があるなら、おれで良ければ聞くからな?」

―――うん、悩み事というか兄さんに訊きたいことがあるんだけどね?
訊かない方がいいと判断してそのままにしてみたが、ここまでくると変に勘ぐられて誤解が生まれてしまった時の方が何かと大変なことになりそうだ。ここは素直に、夜中の出来事について尋ねてしまった方が逆に良いのかもしれないとさえ小狼は思った。
とはいえ、兄のあんな姿を目の当たりにしてしまったのだ、あまり気は進まない。甘い珈琲を口に含み、少し間を置いて、小狼はたどたどしく言葉を紡いだ。

「え…っと。……あの…さ」
「?」
「……昨日、兄さんはどんな夢を見てたの?」
「…は?」
「いやあの、なんか凄く魘されてた…し。おれ、それで夜中に起こされちゃったんだけど…ううん、起こされたのはどうでもいいんだけど」

そこまで言うと、小龍は『あぁ…』と納得のいった表情をしてみせる。そして直ぐにバツの悪そうな顔をし、大きく重い息を吐いた。
…やはり訊かなければよかっただろうかと小狼は内心ハラハラとし落ち着かなかったが、少しすると小龍は『…笑うなよ?』と話し始めた。

「世界からお前が居なくなる夢を見たんだよ」
「おれが?」
「そう。誰もお前の事を覚えてないし、お前が居た形跡すら全部世界から一つも残らず消えた夢を」
「でも、兄さんはおれのこと覚えていたの?」
「いや、おれも途中まで忘れていた。当たり前のように過ぎていく毎日のふとした瞬間に、何かがおかしい、何か大切なことを忘れていないか?何も無いのだとしたら、このぽっかりと穴が空いたような感覚は一体何だ?って違和感に気がついたんだ」

小龍は、自分の胸に手を当ててそう言った。

「違和感を覚えてしまったら、思い出すまではそんなに時間は掛からなかったけれどな」
「そっか…」
「思い出したところで、当の本人は世界のどこにも居ないし、おれ以外の誰の記憶の中にも小狼は居なかった。最初に言った通り、形跡も何も無いんだ。この記憶が正しいのか、それともおれだけがおかしいのか…判断がつかなかった」

珈琲に映る、自分の顔をただ呆然と見つめる小龍。話を聞く前から、自分と兄が離ればなれになる夢であるということは寝言からある程度判明していたが、想像していたよりもスケールが大きな話だった。

「……そっか」
「人間の記憶というものは元々曖昧だし、これが本物かどうかは夢の中のおれには分からなかった。それでも、お前が居た記憶を辿ると…なんだろうな。埋まった気がしたんだよ、胸に空いた穴が」
「…だから、おれのことを呼んだの?」

そう訊ねると、小龍はパッと目線をこちらに移してきた。自分と瓜二つの琥珀の瞳はまん丸に開かれ、かと思うと上から瞼が下りてきて見えなくなってしまった。夢を見ていた時と比べると可愛いくらいだが、眉間に再び皺ができる。

「……選りに選ってそこか」
「選りに選ってそこだよ…。というかおれは、兄さんに起こされたんだからね」

小狼とて、別に望んで兄が弱音を吐いている場面を見た訳では無いのに、そんなふうに言われると少しくらいは言い返したくもなる。
きっと夢の内容的に、小龍にとって一番見られたくなかった場面なのだろう。弟が居ないから不安になるだなんて、まるで幼い子供のような理由で格好がつかないだのと考えていそうだ。
―――おれが夢の中の兄さんの立場だったら、同じようにきっと兄さんのことを探し回ってしまうんだろうな。
自分の思い出の中には、いつもどんな時でも兄の姿があった。それこそ、兄が遅れて留学してくる迄の僅かな間くらいしか離れていた期間は無いのではなかろうか。だからこそ、我を忘れて必死に探してしまうだろうというのは想像に難く無かったし、特別格好悪いとも思わないのだが。
まぁそう告げたところで、いつもの様に『お前は弟だから良いんだよ』などと片付けられてしまいそうな気もするので、何も言わない。

「でも、そっか…。…あのね、兄さん」
「…ん?」

眉間の皺はそのままに、こちらを見据える小龍。そんな小龍にふわりと笑いかけながら小狼は告げる。

「おれのことをそこまで想ってくれる人が居て、…おれはとても幸せ者だなぁって思ったよ?」

口に出してみたら思いの外恥ずかしかったようで、言い終わった頃には、小狼は耳まで紅く染まってしまっていた。その様子を見ていた小龍からは、くすくすと笑みが零れている。
―――嗚呼、本当に。お前を見ていると、愛しいという気持ちは留まるところを知らないな。
先程までの重苦しい空気は何処へやら。
そこにあったのは、いつもと変わらない二人の姿であった。自分の蒔いた種で手一杯になってしまった小狼と、それを余裕そうに見守る小龍。
兄をフォローするつもりでいた筈なのに、いつの間にやら逆転していたこの状況に、小狼はいたたまれなさを感じてしまう。

「あ、あと、あの…」
「うん?」

相変わらずの表情を浮かべている小龍と対照的に、ふわふわとして落ち着かないでいる気持ちをなんとかして抑えようと、小狼は深く息を吸いこんでから自分と同じ琥珀を見つめた。

「…ずっとずっと、おれは兄さんの隣にいるよ。兄さんを独りになんてしないよ。だから…」

あの時、小龍にこの言葉が届いていたかは分からない。ならばと思い、今一度改めて伝えてみる。この言葉に嘘偽りは無い。だが、小狼の気持ちの全てではなかった。
夢を見ている最中の小龍には、一切の余裕が感じられなかったが、今は違う。
それなら、少しくらいは我儘を言っても赦されるだろうか。誰の為を思っているわけでも何でもない、ただ自分の為でしかない、こんな願いを。

「―――だから、兄さんも…おれを置いていったりしないで」

そう言って、カップに添えてあった小龍の手に自分の手を重ね合わせる。こんな時くらいは、弟である特権に甘えてしまっても良いだろうか。

「……あぁ」

揶揄っているようなものとはまた違う、愛しいものを見つめる柔らかな笑みを浮かべながら、小龍は応えた。どちらとも無く、お互いが小指を差し出す。

「…約束」

指切りをして、互いに笑いあった。

その後、少し冷めてしまった朝食を摂りながらたわいの無い会話をしていたが、昨夜小龍が流した涙の事は自分の記憶の中に閉まっておこうと小狼は思った。
伝えたところで、無駄に兄の尊厳を傷付けてしまうだけだろうし、知らない方が良い事柄も世の中には少なからず存在するのだ。だったら、このままにしておいた方がきっと丸く収まる。それに…。

―――おれしか知らない。そんな秘密が、一つくらい増えてもいいでしょう?
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